私の結婚式の時の事
一軒置いて隣から嫁に来たので 祝言の嫁入り行列は 道のこっち側からあっち側 こっちからあっちと行ったり来たり。なるべく長い時間かけて祝言の歌をうたいながら 大勢見に来てくださった方の間を通って来たもの。
まだ 終戦間もなくなので もんぺと迄はいかなくとも(戦争中は 嫁入り衣しょう等は着ていけなかった)派手はいけないと 道中は紫のリンズの訪問着でした。母が なけなしのお金で買ってくれました。
その頃 この家は高くなっていて 切石の石段を二、三段上って家に入ったものです。
倉修復について
愈々 倉の囲いの取りはずし。何だか 胸がワクワクする。
先月三十日 足場くみから始まって二十八日目 柳大工さんと鈴木大工さんの二人で足場取りである。表われ出でたる新装なった我が家の倉。家紋の鷹の羽違いが金色にさんぜんと輝いて まばゆい様だ。
思えば 三年越しの倉修理であった。
平成十六年十月二十六日 五時五十分 突然の揺れ。夕方の散歩から帰り 夕飯の支度でもしようかなと思っていた矢先だった。
みんな外へ飛び出た。交番のおまわりさんが ミニ公園の所へ集って下さい と云った。揺れは未だ続いた。後に知る所によると震度6とか。 今迄に経験した事のない大きな地震だった。
そして家では 本家(ほんや)の塗ったばかりの外壁が一軒分落ちた。倉は 二階の一部分と出入り口の壁が落ちた。
地震の前から倉が古くなって 修理しなければならない所があったのでお願いしていたのだが 仲々できなかった。地震で更にいたんだので どうしても早くしてもらいたかったのだけれど 今度は大工さんの方が地震関係の仕事で忙しくなってしまい 漸く今回の運びとなった。
今迄トタンだった外壁を全部木にしてもらい 壁も塗ってもらった。入り口上段には家紋もつけてもらった。今迄大きかった入り口を小さくして 雪掘りに楽なようにしてもらった。
小さくてきれいな倉になった。
この倉は松代の大火はまぬかれたとの事。本家より古いわけだ。
これで又 子孫代々使えるだろう等と考えるのは 年寄りの勝手とも思えるが 気持ちがすっきりして 自分なりに充分満足している。
倉修理大工さん 柳 満/倉修理大工さん 鈴木 和男/左官 小堺/庭師 山本
皆朱膳について
倉の二階に上がってみた。
地震以来何回かは見たのだが こういう所は仲々手をつけたくないものだ。お膳の箱が 倉の真中に並んでいる。
大正五年 三月求/皆朱膳椀三十人前中五人前/當家三代 柳 喜平次
一つ一つの箱に達筆でこう書いてあり 六つある。輪島塗りの朱である。地震で あっちこっち向いている。未だ整理していない。私の覚えている限りでは 結婚式 子供の誕生祝い 何回かの法事 その度にこの皆朱膳椀は活躍して来たのだ。その時々の様子を思い出す。
使った後の手入れが大変。最初ぬるま湯で洗い流す。それより少し熱くしたお湯でもう一回。それより又少し熱くしたお湯を通し終わると大変だ。さめない中に 親類分家のおかあさん達五、六人 白いふきんを持って並んでいる。次々と廻ってくる少しあたたかいお椀を素早く拭く。最後にきれいにつやを出す。これが ごったく(行事の事)のあった後の大仕事。
そして倉に入れて 次の行事のために大切にしまっておく。
近ごろ 余り使わなくなり 倉の中の皆朱膳が泣いている様に見えたので 私は 茶道の茶事に使わせてもらった。
茶道は 裏千家をやっている。茶道の中で昼茶事は基本。その中で 席入り 初座 懐石(かいせき)とつづくが その懐石の場面でお膳が必要となる。お膳がなくては話しにならない。
私は 倉の二階に上がり お膳を出して来た。久しく使わなかった膳椀。二の膳つきである。おそるおそる出してみると 驚いた。輪島の朱で おひつ おしゃもじ ゆとう迄ついて しっとりと絹の布や昔のキ紙で包んであるのだ。充分以上 使える。私は宝物の様に扱って やわらかいガーゼで拭いてみた。
つやが出て来て生きものの様。拭いているうちに色がかわってくる。少し濃い朱になってくる。
美しい宝物。正に我が家の宝物と思った。この様なものが どこの家でも多かれ少なかれあったものだ。昔の人は 優雅な生活をしていたものだ。
私は もめんの布に 使った日時 又は 倉から出してみがいた日時等 書き入れた。これからも大切に扱っていきたいとは思っているが これからどう続くかは わからない。
我家の鯉
私は一人暮らしなので 私以外の私の家族は この家に於いては 鯉と盆栽のようなものだ。何しろ 人間も毎日 何かを食べたり水を飲んだり 掃除したり洗たくしたりしなければならないが 鯉も同じだ。生きものだから 毎日餌もやらなければならない。病気にならない様に動きをみたり 消毒もしてやり 声も掛けてやらなければならない。鯉は 音に敏感なので 急に大きい声を出したりすると さっと逃げる。ピアノを弾いてやると 気持よさそうだ。
知っている人と知らない人 又は自分の気に入っている人 気に入らない人の声もみわける。
私が朝起きて 寝室のフスマをそっと開けると その小さい音に反応してさっと集ってくる。 旅しても入院しても新潟の長男の家に行っても 何時も気にかかる我が家の家族 我が家の鯉である。
思い出も たくさんある。 孫が小さい頃 すぐ池の鯉だ。廊下から餌を投げてやろうとする。ある時 自分も一緒に跳んでしまって 池に落ちそうになったこと。 主人(一郎)が 旅行に行って帰って来ると 真先に鯉の所に行き 「おお 我がこいよ」というので 私がやいたこと。
今も 新潟の長男家族が家へ帰って来ると すぐ鯉の所へいき パンくずやらおかしやら 与えようとするので その度 私がおこること。
以上である。
柳キノさんのこと 池田 緑
私はいま、新潟県十日町市松代に滞在中。かつて県職員住宅だった建物の一室から、商店街のほぼ中央に位置する柳さんの家に日参している。4週間と時間を区切り、家の主であるキノさんの日常生活を映像で記録させていただくためだ。彼女が日々の生活を心から楽しまれていることがわかり、豊かな、しかし決して大仰ではないその生活ぶりを、もっと知りたいと思ったからだ。
ではなぜ4週間かというと、それは私が<時間の経過>を作品のテーマのひとつにしていて、今回については4週間(1週間_4)という単位こそが最も適当と感じたから…。
それにしても、63年余りの我が人生で、アートを媒介に、松代に暮らすひとりの女性とこのような生涯のおつきあいを持つことになろうとは思いもしなかった。
すべては今夏、第3回目を迎えた「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2006」に起因する。
出品作『家の年齢プロジェクト(キノさんの家の場合)』は、家が建ってからの膨大な歳月を家の年齢とおさえ,その年齢分の日にちを、1918.4.1/1918.4.2
/1918.4.3 〜という具合に幅9mmのプラスチックテープにテープライターで連々と刻印し、あえて見えないものを視覚化することで、その家に流れた時間や住人の歴史を感じ取ってもらおうというものだが、まさに作品が取り持ったご縁。
煎じ詰めれば、私に「大地の芸術祭」参加の機会を与えてくださり、作品の素材の家として、また作品展示の場としてこの家を紹介くださった総合ディレクター・北川フラムさんのもたらしてくれたご縁と言っていい。
「第1回大地の芸術祭」から5度ほど松代を訪れていたもののキノさんとの初対面は、忘れもしない4月20日。それからまだ4ヶ月しか経っていないことにあらためて驚く。なぜなら、もうずっと以前からの知り合いのような気がするからだ。
作品制作のための聞き取り調査と称して来し方を根掘り葉掘り伺い、大量のアルバムを解説付きで丁寧に見せていただいたせいもある。が、何より、このわずかな期間に、キノさんが家にまつわる、あるいはご自身にまつわるエピソードを一気に18編も書いてくださったからに他ならない。
これらのエピソードを活字にしてファイルし、来場者にぜひとも読んでいただこうと一字一字、キーを叩いてコンピューターに取り込んだことで、キノさんの考え方や行動、趣味や生活習慣、大切な思い出などに少なからず寄り添うことができた。
それにしても「雪の峠越え」「あこがれの東京は焼け野原だった」「私の結婚式の事」「皆朱膳について」「ピアノ」「ひまご」などなど、いずれのシーンも深く心に残る。それにつけても何と達筆なこと!
今回の私とのコラボレーションをきっかけに、自分史をお書きになるそうなので、とてもうれしくてならない。
そんなわけで、東京の大学に通っているお孫さんの祐美さんが夏休みを利用してやって来ても、頭の引き出しからすぐに1枚の写真が躍り出て、あ、この娘が、この家で1歳の誕生日をキノさんに祝ってもらっていたあの赤ちゃん? などと親しみがわき、ごく自然に接することができるのもうれしい。
祐美さんは、料理の手ほどきを受けたり、お茶の作法を習ったり、中越地震の起きる前から修理を依頼していて、このほどやっと修理のなった蔵の中の整理を手伝ったり、あるいは夕まぐれの散策に肩を並べたり、とおばあちゃんとの贅沢で貴重なひとときを堪能している。
お盆を前にしたある日、祐美さんとお墓の清掃に出かけるというので、キノさんの運転する車に一緒に乗せていただき同行した。家からほど近い里山の頂上近く、山百合が咲き競い、樹齢を重ねた木々の間から松代の町が見渡せる景色の良い場所にお墓はあった。思いがけない静寂と涼を得て、心身ともに清々しい時間を過ごすことが出来た。
キノさんが、お孫さんに静かに語っている。
「祐美ちゃん。おばあちゃんね、おじいちゃん(故人)と一緒にね、ゆかりのある人なら誰でもこのお墓に入れるようにしたのよ。ほら、柳家ではなく先祖代々の墓ってなっているでしょ。だから入りたい人は祐美ちゃんでも誰でも、安心してここに入れるのよ。もちろん、おばあちゃんも安心して入るのよ」。
_安心して_とは、何といい言葉なのだろう。安心して帰ることのできる場所。安心して身を横たえることの出来る場所。ああ、これが田舎というものなのだ。これがふるさとというものなのだ。
「大地の芸術祭」が私に授けてくれたものはいろいろあるが、いの一番はこのふるさとの概念かもしれない。そして、越後妻有はまぎれもなく安心して帰る事の出来る万人のふるさとなのだ。だからこそ一度訪れたことのある人は幾度となく回帰し、ここで暮らす人々との繋がりをとても大切に思うのだろう。
キノさんは、立ち居振る舞いがとてもお若い。少しもじっとしていない。「前はもっと速く歩けたのに…」と言いながら思いがけない速さで歩かれる。あっという間にビデオカメラの液晶画面から消えてしまう。小学校の先生をされていたことがあり、お茶の先生をされているからと思っていたら、何と社交ダンスに夢中だった時代があることも判明。けれど、気持ちのほうがもっとお若い。初々しいと表現した方がふさわしいかもしれない。誤解のないよう付け加えるが、世の中広しと言えど彼女ほどの識者にはなかなかお目にかかれないだろう。とにかく魅了され、ひたすら姿を追う日々だ。
大正15年生まれの80歳。80歳の今年を、末広がりの年と喜んでおられる。再び大きな花を二つも三つも咲かせよう、と張り切っておられる。そんなキノさんのお福分けをいただいて、なんだか私の人生も末広がりのように思われてならない。
というわけで、<大地の芸術祭>出品作品とは姉妹関係になるのだが、ただ今撮影中のこの映像記録作品「キノさんとキノさんの家の4週間(2006年7月23日〜8月19日)」が完成のあかつきには、どうぞ上映会場(日時、場所ともに未定)まで、すばらしい先達、柳キノさんに会いにいらしてください。
越後妻有の深い自然に囲まれて
2006年8月12日記 |